「おい、暇か」の声が集合の合図でした
多くの方から愛されていた松井さん。後日、幹事の一人である武藤 章さんに今回のお別れ会に至った経緯と"想い"をうかがいました。
松井先輩との別れ。「お別れ会」で最後の挨拶ができました。
――武藤さんお生まれは
わたしは秋田県横手市の出身です。亡くなれた松井さんと知り合った兼松エレクトロニクスには28歳で入社。当時、松井さんは隣りの課。SE(システムエンジニア)の先輩です。松井さんの課が上流とすると私のところは下流にあたります。
わたしが入社したころというのはバブル期でしたので、売り上げも好調、中途採用の人も多かったと思います。松井さんは8歳上の先輩でした。以来、幾度となく飲みに連れていっていただきました。
武藤 章 氏(ケー・イー・テクニカルサービス㈱ ドキュメントソリューション部マネージャー)
――松井さんから誘われたのですか
いつも僕らの席にやってきて「おい、暇か」と声をかけてくださるのが合図でした。
松井さんは飲まれても声を荒げることはなかったですね。ぼくらは酔っぱらって記憶にないことが多かったのですが、松井さんは忘れないんですね。
――部下想いの上司だったのですね
部下に対して細かいことは何も言われない、任せる方でした。信用してくださったのです。謝りに行くのが上長の仕事だって。
ですから私たちが、仕事がどうしてもうまくいかなくて、取引先のところに一緒に行っていただいて謝っていただいたことがありました。
そのあと、まだお昼だというのに、喫茶店で一言「悔しいな」と言われて、ビールを飲み始められたことがありました。そのシーンは印象的でした。それまでそんな姿を見たことはなかったですからね。
――お酒に飲まれることはなかった?
飲み仲間の佐藤さんも僕と一緒で、埼玉に住んでいました。松井さんは尾久(荒川区)、ですから飲んだあとはタクシーで一緒に帰ります。
それが日常茶飯事。僕らも若かったですね。話しに飽きたりはしなかったです。ただ、6時間くらい経つと話がループしていたりしました(笑)
――なぜお別れ会を企画されたのですか
松井さんが亡くなられたと知ったのは家族葬も終わられたあとでした。
葬儀というのは家族のものですから、わたしたち会社関係者はお別れのご挨拶をする機会が無かったのです。
そこで、同僚の佐藤さんと相談して、有名人がやっているお別れ会みたいなことができないかと考えていました。
「お別れ会」とか「偲ぶ会」をネット検索し、Storyのことを知りました。
電話で井野さん(Storyプロデューサー)に相談させていただいたのが始まりです。
松井さんがお酒好きで、私たちとしょっちゅう飲みに行っていた話をさせていただきました。そこで井野さんから「献花ではなく献酒にしては」と提案をいただいたのです。僕らはすぐにその提案にのりました。
――お別れ会に参加されていかがでしたか
3時間あまりのお別れ会で、みんなゆっくり松井さんと語りあうことができたと思います。
当初は30人くらいで考えていた会でしたが、どこかで聞きつけたのか故人の関係者の方がたくさん参加してくださりました。結局70人くらいになったでしょうか。
会費と参加出来ない方の供花というカンパで運営費は賄えました。
会に展示する松井さんの年譜やスライドをみんなで作りながら、あの時はこうだったとか、こんなこともあったよなとか、思い出話に花が咲きました。お別れ会が終わった後も運営に携わったメンバーで二次会。
ほんとうにみんなから愛された松井さんだったと、改めて感じました。
66歳という早すぎた死。今でも素晴らしい上司だった松井さんの、喪失感が去来します。
松井さんは、ことある毎に「絵の描けるSEになれ」って、言われていました。
最後になりますが、
松井さん、ありがとうございました。