法政大学元総長 清成忠男氏 お別れの会
2024年7月23日に91歳で亡くなった清成忠男氏のお別れの会が、2024年12月5日に法政大学市ケ谷キャンパス 外濠校舎の薩埵ホールで開催されました。
清成忠男(きよなり・ただお)
生年月日:1933年2月19日(満91歳)
出身地:東京都
出身校: 東京大学経済学部
日時:2024年12月5日(木)
場所:法政大学外濠校舎 薩埵ホール
主催:お別れの会実行委員
清成忠男氏のプロフィール
清成忠男氏は、東京都出身。1956年に東京大学経済学部を卒業後、国民金融公庫に勤務し、小規模企業の新規開業調査などに従事しました。
1968年から法政大学経済学部の非常勤講師として教鞭を執り、1972年には法政大学経営学部の助教授に就任し、翌年教授に昇進されます。1986年から1988年まで経営学部長を務め、1996年には第16代総長に就任し、2005年まで3期にわたり大学の発展に尽力されました。
在任中、「開かれた法政21」というビジョンを掲げ、1999年に国際文化学部・人間環境学部、翌2000年には現代福祉学部・情報科学部、2003年にはキャリアデザイン学部と5つの学部を新設し、キャンパスの再開発にも力を入れました。
また、日本ベンチャー学会の設立に関与し、地域活性学会の初代会長として地域振興にも寄与されました。その功績により、2006年にフランス政府から教育功労章コマンドゥールを、2010年には瑞宝大綬章を受章されています。主な著書に『日本中小企業の構造変動』や『ベンチャー・ビジネス』などがあります。
法政大学の発展に尽力した総長であると同時に、日本の中小企業やベンチャー企業論の分野で多大な貢献をされました。
法政大学のスクールカラーで彩られた祭壇
清成忠男氏の祭壇は、遺影を中心に、濃い青紫、オレンジ、白の三色のカーネーションで彩られています。その色合いは、法政大学のスクールカラーであるオレンジと紺(法政ブルー)を表現して、大学への深い愛情を感じさせるものでした。ちなみに法政カラーのオレンジは「暁の太陽」、紺は「青空」を象徴しているそうです。
遺影には、清成氏が穏やかに微笑む姿が映し出されており、その表情には厳しさの中にも人々を慈しむ温かさが滲んでいました。祭壇全体が、氏の人柄と法政大学への思いを象徴するような雰囲気を感じさせてくれました。
清成氏の功績と人柄が偲ばれる言葉の数々
清成忠男氏のお別れの会は、お別れの会実行委員長・法政大学常務理事の佐野哲氏による開会の辞で始まりました。佐野氏は、清成氏を「普通の先生、普通の研究者ではない」と評し、理論を学び、現場を歩き、研究成果を社会に実践していく姿勢を強調。「研究の中から新しい言葉や概念を生み出し、それによって企業や行政、社会そのものを動かしてきた」とその功績を称えました。また、「現在のベンチャービジネスやスタートアップ、地域創生への想いは清成先生から受け継がれ、今も社会を変え続けている」と述べました。
黙とうの後、法政大学総長でお別れの会代表の廣瀬克哉氏が挨拶に立ち、清成氏が実現した2年間での4学部新設というスピード感ある改革を振り返り、「現在の法政大学の長期ビジョン『HOSEI2030』も、清成氏の改革精神が基盤になっている」と称えました。
生前親交のあった京都大学経営管理大学院特命教授岩尾聡士氏は「清成先生は知の巨人であり、一流の学者、そして学校経営のプロフェッショナル。他人のために生きる精神を体現されていた」とその生き方を賛辞をもって振り返りました。
清成氏のプライベートな面については、総長室次長として支えていた高橋洋子氏が「笑わない人と言われていましたが、私といる時はよく笑っていらっしゃいました」とその意外な一面を明かしました。また、「自分が早く帰らないと周囲の人が帰れないから」とどんなに忙しくても5時になったらさっと帰られたという清成氏の細やかな心遣いにも触れました。
最後は、参列者一人ひとりが白いカーネーションを手に取り、祭壇に献花しました。
白いカーネーション一輪一輪が、清成氏への深い敬意と感謝の象徴のように感じられました。参列者の中には、いつまでも手をあわせて、心の中で言葉を紡ぐ姿もありました。
清成氏が好きだったお酒とスイーツの展示
お別れの会の後、参列者が故人を偲びながら思い出を語り合う場として、和やかな雰囲気の食事会が開かれました。
食事会の入り口には、清成氏が好んでいた大分麦焼酎「二階堂」、キャラメル、チョコレートが展示されていました。それぞれの香りや味を楽しみながら、参列者は清成氏との思い出に浸り、心の中で感謝と思いを語りかけているようでした。
※※本会につきましては弊社『Story』の施行ではなく、当日会場にて取材をさせていただき作成した記事になります。※※
NHK「おはよう日本」でStoryが紹介されました